Dear farther

父へ

”Dear Father”

1992年12月24日 父他界。享年59歳 。父の死から31年が過ぎ、今年自分も父と同じ歳になった。今こうしている自分の年齢が父のあの時の年齢だったことが実感できない。もしもこれからも生き続けるのなら父を超えた人生を歩む事になる。

生前の父は子煩悩の親だったとは決して言えない人だった。実際自分の記憶の中には、父と遊んだり、笑い合ったり、叱れれたりした記憶がない。仕事熱心で帰りは毎日午前様。当時の男では当たり前だったかもしれない亭主関白という存在であったと思う。幼少の頃は横浜の片田舎の団地に住み、勤務先の銀座まで片道2時間以上かけて毎日通っていた。高度成長期時代の通勤は想像を絶していたと思う。それでも文句一つ言わずに(自分は聞いた事がないだけかも)家族のために仕事を続けた。週に一度の日曜日の休日には、疲れていたにもかかわらず家族を色々な所へと連れていってくれた。そんな父を自分は最大の敬意をもって尊敬する。

私が小学生1・2年生の頃、たぶん1970年頃だろうか、調べても正確にはわからなかった。父は会社の研修旅行でアメリカ横断の旅をした。1970年として約53年前の事だ。

53年前の写真と59歳で去った父。没後31年の年月と父と同じ59歳になった自分。絡み合う時間の中で53年前の写真が今、目の前に現れ意味を創り出す。発展と荒廃。表と裏。生と死。過ぎていったその時間の中で写真は誰からも見られる事なく生き続けていた。自分が求めていたもの。人の暖かさ。温もり。

子供には不器用だった父が表現したストレートな人間像。写真には興味がなく、ただありのままに感じてシャッターを切った。原点。豊かでは無かったかもしれないが、夢があった時代の。

時間の残酷さを表わしたかった。テロとか戦争とか災害ではなく。今、世界は人類の限界なのであろうか。思想も文化も建造物も人が作り上げたもの全てが。父が写した輝かしい時代の世界が私の写真と折り重なって今を際立たせる。誰がこんな世界になると想像したであろうか。もしも人類が等しく幸せになりたい考える存在であるなら楽園は実現出来たはずだ。今は出来なかった私たちへの罰なのか。